甲斐姫物語ー第一章(時間の悪戯)

この場所は、周囲を果てしない沼と深田に囲まれていた。
四方を水に阻まれ、寄せ手からはまるで水面に浮かぶ一葉の蓮のように見えることから、人はそこを「浮き城」と呼んだ。
ここにひとりの姫が産声をあげようとしている。
彩華(いろは)はいきんでいる。
しばらくすると、水面を包んでいる霧がどこかに消えようとしていた。
「ウンギャーあ!」
まるで男の子のような勇ましい産声であった。
その響きに、あの武勇に守られた鬼神――正木丹波も、思わず腰を抜かした。
「と、とのォー! 生まれたようにございます!」
「なんじゃ、丹波。そちらしゅうない(だらしないぞ)」
主君・成田氏長が呆れたように声をかける中、奥女中が部屋から大慌てで駆け出してきた。
「して、おのこか? 姫か?」
「……姫君にございます」
その答えに、氏長は一瞬の沈黙の後、力強く頷いた。
「そうか。でかした、彩華」
産屋に入った氏長は、差し出された赤子を一度だけ、その逞しい腕に抱き上げた。
生まれたばかりとは思えぬ強い眼差し、そして父の指を離そうとしない拳の力。
その重みを、一瞬だけ噛み締めるように確かめると、氏長はすぐに奥女中へと手渡した。
「……確かに、成田の命だ」
そう一言だけ残すと、氏長は布団の中で息を整える彩華を振り返ることもなく、潔いほど足早に部屋をあとにした。
廊下に出た氏長の背中は、すでに「父」の顔ではなく、「浮き城の当主」としての険しさを取り戻していた。
彼は歩みを止めず、ただ一度だけ、霧が晴れ始めた外の景色を睨んだ。
水面は鏡のように静まり返り、朝日を浴びて鈍く光っている。
霧が晴れ、視界がどこまでも開けていく一方で、氏長の心の中には、この浮き城を守り抜くための、誰にも明かせぬ
「覚悟」があった。

氏長の意識は、未だに武蔵の境界線、その先にある険しき山嶺を彷徨っていた。

相模の北条、甲斐の武田。
この「浮き城」を、そして成田の家を存続させるためには、いずれかの大国に愛娘を人質として差し出さねばならぬ日が来る。祝うべき誕生の直後だというのに、彼の頭にあるのは非情な外交の計算であった。

「ん……甲斐の……」

西の脅威を思い描き、無意識にその地名を唇に乗せた。
それは独り言であり、恐怖の対象を確認する呟きに過ぎなかった。しかし、期待に胸を膨らませていた女中の耳には、それが至高の「命名」として響いてしまう。

「かい……? 『甲斐』でございますね!」

女中の弾んだ声が廊下に反響した。
だが、氏長は「はっ」と我に返りながらも、己が何を口にし、それがどう受け取られたのかを正確に把握していなかった。ただ、思考を邪魔された煩わしさと、上の空の返事が混ざり合う。

「……ん? ああ、そうじゃ。良きに計らえ」

自らが敵国の名を愛娘に授けてしまったことなど、露ほども思わず、氏長は再び深い思索の霧へと戻っていく。

「承知いたしました! 甲斐様、甲斐様でございますね!」

女中は氏長の返事を確かな許しと受け取り、顔を輝かせて廊下を駆け戻っていく。

「奥方様、奥方様ー!」

遠ざかる女中の歓喜の声を聞き流しながら、氏長は再び、秩父の山々の向こう側を睨みつけた。

「赤鬼が……もし雁坂を越えれば……」

当主が「ボタンのかけ違い」に気づかぬまま、一人の姫に宿命の名が刻まれた。
この何気ない、あまりにも軽はずみな瞬間こそが、後の世に 北武蔵の女傑と言われた、波乱に満ちた甲斐姫物語の始まりであった。

「奥方様、奥方様ー! お名前が決まりましたぞ!」

女中の弾んだ声が、産屋の静寂を塗り替えていく。
その声を遠くに聞きながら、氏長は依然として廊下で立ち尽くし、霧が完全に消え去った冬枯れの空を睨んでいた。

「赤鬼が……もし雁坂を越えれば、この城は……」

彼が恐れていたのは、いつか来る「侵略」であり、その時のための「交渉の札」であった。
娘が生まれる。それはすなわち、強国への人質という悲劇を予感させるもの。
そんな思考の泥濘(でいねい)の中で無意識に漏れた「甲斐」という言葉が、
あろうことか愛娘の生涯を定義する名になろうとは、この時の氏長は露ほどにも思っていない。

当主が自らの「ボタンのかけ違い」に気づかぬまま、祝杯の準備が進められていく。
産屋では、彩華(いろは)が「甲斐」という名の響きを、何度も愛おしそうに繰り返している。

相模の獅子でもなく、上杉の龍でもなく。
最も恐れ、最も忌むべき西の虎の国――。
その名を背負わされた赤子は、父の腕から離された後も、なおも拳を強く握りしめ、
何かを掴み取ろうとするかのように虚空を突き上げていた。

この何気ない、あまりにも軽はずみな瞬間こそが、後の世に「甲斐姫」として語り継がれる北武蔵の女傑の、
波乱に満ちた物語の始まりであった。

「奥方様、奥方様ー!」

またしても遠ざかる女中の声である。
冷えた廊下に木霊(こだま)しては消えていく。

氏長は、依然として動かなかった。その視線は、霧が完全に晴れ、青白く光る秩父の山嶺に釘付けになったままである。
国を預かる身の孤独が、冬の朝の冷気となって彼の肩にのしかかる。

「……殿。いかがなされました」

背後から低く、しかし芯の通った声が響いた。
腰を抜かしていた正木丹波が、いつの間にか立ち上がり、主君の数歩後ろに控えていた。
その眼光は、先ほどまでの「赤子の声に驚く男」のものではない。
主君の心の揺らぎを即座に察知する、成田の「剣」としての鋭さを取り戻していた。
氏長は振り返らず、ただ吐き出すように呟いた。

「丹波。……少々手違いがあった。どうやらわしは、生まれてきた赤子の名を『甲斐』命名してしまったようだ」

「甲斐姫……にございますか」

丹波の声に、微かな困惑が混じる。
武蔵の国人衆にとって、甲斐の武田は畏怖の対象。その名を姫に授けるとは、普通では考えられぬことだ。丹波の脳裏には、主君が武田との間に密かな約定でも結んだのかという主君に対する疑いがよぎる。

「わしが恐れているものの名を、そのまま付けてしもうた」

氏長は自嘲気味に笑った。だが、その笑みはすぐに消える。
「だが、一度放たれた言の葉は、もう戻らぬ。
ボタンのかけ違いは、往々にして運命という奴の好物だ」

氏長は、ようやくゆっくりと丹波の方へ向き直った。
その顔には、先ほどまでの迷いは消え、代わりにどこか諦念にも似た、冷徹な決意が宿っていた。

「丹波、そちにしか言えぬ。甲斐は、男(おのこ)として育て、女児であることを伏せよ。」
心配性な父である。

「殿……? 姫君に、剣を……でございますか」

「そうだ。もしわしの『読み』が外れ、あの赤鬼が山を越えてきた時……。
あるいは、わしがこの子を人質として差し出さぬ方便じゃ。
その名を背負うたあの子が、自らの足で立ち、己の運命を切り拓けるようにしておかねばならぬ」

氏長の言葉は重く、そして予言めいていた。
「時間の悪戯」は、もう始まっている。

丹波が深く頭を下げたその時、産屋の方から、赤子の泣き声が再び響いてきた。
先ほどよりも、さらに力強く、何かに抗うような声。

その声を聞きながら、氏長は再び秩父の山々を、そしてその先にある宿命の地を見据えた。

赤子の産声から一夜が明けた。
冬の朝特有の鋭い冷気が、浮き城の湿った泥を白く凍らせている。

氏長は、昨夜の祝杯の余韻に浸ることもなく、夜明けとともに正木丹波を従えて城を出た。
「朝駆け」と称した、領内の見回りである。馬の鼻息が白く弾け、蹄の音が凍土に小気味よく響く。

氏長が恐れていたのは、やはり「西」であった。
この年――元亀三年。甲斐の武田信玄入道が、ついに大軍を動かしたという報が関東を揺るがしていた。
氏長は「赤鬼がついに雁坂を越え、この北武蔵を、成田の領を呑みに来る」と、胃の焼けるような恐怖を抱え、西の秩父山嶺を睨みながら馬を走らせていた。

だが、歴史はさらなる悪戯を用意している。
当主・氏長がこれほどまでに西の影に怯え、愛娘に「甲斐」という呪いの名を刻みつけたというのに、当の信玄入道の眼差しは、もはや東の小国(成田)など向いてはいなかった。赤鬼が見据えていたのは、遥か西――天下の胃袋、京の都であった。武田の軍勢は武蔵を素通りし、遠江の三方ヶ原へと牙を剥こうとしている。
この、巨大な時代のうねりと地方領主の「読み違い」を知る者は、この時、まだ誰もいない。

やがて二騎の馬は、城の南方に位置する小高い丘――八幡山へと差し掛かった。
そこで、先を走っていた丹波が、ふと手綱を引いて馬を停めた。

「殿、少々お待ちくだされ」

丹波の視線の先には、朝日に照らされ、ひっそりと佇む古い石碑があった。
古くからこの地に伝わる、防人の歌碑――藤原部等母麿(ふじわらべのともまろ)が遺した、万葉の記憶である。

そこには、はるか昔、この武蔵の地から遥か遠い西国の防人(防衛線)へと召集されていった名もなき兵の、引き裂かれた家族への情愛が刻まれていた。

「色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む」
(愛しい夫の着物を、もっと濃い色に染めておけばよかった。夫が遥かなる御坂(国境の峠)を越えていくとき、その姿がはっきりと見えただろうに)

「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」
(足柄の険しき御坂の頂に立ち、私が別れの袖を振ったなら、故郷の家にいる妻は、それを見つけてくれるだろうか)

丹波は馬上でその歌碑を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「『御坂(みさか)』、にございますな……」

その言葉に、氏長もまた馬を並べ、刻まれた文字に目を落とした。
「御坂」とは、国と国とを隔てる険しき峠、すなわち「境目(坂い)」のことだ。古の防人たちは、この武蔵の平野から、険しい足柄や箱根の峠を越えて、二度と戻れぬかもしれない旅に出た。

「等母麿の妻は、夫が峠を越える姿を見届けようと、着物の色を憂いた。……国境の峠とは、いつの世も人と人とを引き裂く、残酷な場所にございますな」

丹波のその言葉は、単なる昔語りではなかった。
昨日、氏長が下した非情な決断――「甲斐を男として育てよ。いずれ強国へ人質として出すための方便じゃ」という、親子の引き裂かれ(のちの縁切橋の悲劇)を、この宿老はすでに予感していたのだ。

氏長は歌碑から視線を外し、遠くかすむ西の山並みを見つめた。
ちょうどその時、丘の麓にある民家から、細く白い湯気が立ち上り、冷気に乗って醤油とねぎの香ばしい匂いが漂ってきた。城下の民が、朝餉に「煮ぼうとう」を啜っているのだ。

「……丹波。ほうとう、という料理を知っているか」

氏長は、自らの焦りを隠すように唐突に口を開いた。

「清少納言の『枕草子』にもある、古の都の公家たちが愛した高貴なる『餺飥(はくたく)』じゃな。それが巡り巡ってこの坂東の地で、我が領内の美味い醤油とねぎに出会った。どれほど乱世が荒れようとも、雅な都の文化だけは、こうして平穏に人の営みを伝うていくものよ」

氏長は、自らの教養を確かめるように静かに頷いた。
目の前にある防人の歌碑(万葉集)といい、この煮ぼうとう(枕草子)といい、自分は雅な歴史と文化に守られた地を治めているのだという、国人領主としてのささやかなプライドがそこにはあった。

だが――。
氏長も、丹波も、そして温かい汁を啜っている女中や民たちも、露ほども知らなかった。

彼らが雅な平安の遺物だと信じているその食べ物が、いまや秩父の山並みの向こう側、あの「御坂」の向こうで、漆黒の闇に紛れる「赤備え」の兵たちの胃袋を獰猛に満たしている、恐るべき野戦食(兵糧)と化している事実を。
首を刎ね、血をすする武田の獣どもが、まさについ先刻まで、暗闇の中で焚き火を囲んで貪り食い、この武蔵を、そして京の都を喰らい尽くすために牙を研いでいる代物(武田汁)なのだということを。

「雅な餺飥(はくたく)か……。だがな、丹波。昨日生まれたあの赤子には、やはりこの武蔵の優美さだけでなく、あの険しき『御坂』を越えていく強さが必要なのだ」

氏長は馬の腹を蹴り、再び歩みを進めた。

「足柄の御坂で袖を振るか。……我が娘、甲斐がいつか国境の峠を越えるとき、わしはあの子の背中を、まさやかに(はっきりと)見届けることができるのだろうか」

自らが仕掛けた「ボタンのかけ違い」が、やがて母娘を引き裂く「縁切橋」の伝承へと繋がり、そして遥か未来、醍醐の桜の下で「花を深雪能山農のと気佐 可い(山のどけき境目、甲斐)」というあの短冊の『坂い(御坂)』へと収束していくことを、この時の氏長はまだ、知る由もない。

合おひ乃松毛としふり佐くら咲
花を深雪能山農のと気佐 可い

〇相生(あいおい)の松:二本の松の根元が一つになっていることから、夫婦の和合や長寿、ともに老いるまで仲睦まじいことを象徴するめでたい松です。

〇年経り:年月を重ねて。

〇み雪の山:雪の降る山、あるいは「深雪(みゆき)」の美称。同時に、天皇や太閤(秀吉)のお出ましを意味する「御幸(みゆき)」の響きも重ねられていると考えられます。

〇のどけさ:のどかさ、穏やかさ。