成田甲斐

甲斐姫の涙

「甲斐の姫、こぼれボタルに カキツバタ。未来で待つ身、忍の真心。

私もこぼれボタルだわ、そして未練カキツバタね!
どうしてあの時、父上の言いつけに背かなかったのかしら。
お家を守るため?母上が言っていたわ、家を守るのは女の務めだって。
でも私は、忍之丞のところに帰りたい。
どうしてあの時のように
どうして迎えにきてくれないの?
致し方ないと姫はわかっている。
それでもわがままを言いたくて、こっそりと聚楽第を抜け出して 御所の鬼門の河原まで裸足で歩いてきた。
忍乃丞、未来で待ってる。

二つの橋の記憶

湿地の匂いが、春の風に混じって流れていた。
忍城の外れ、沼地に架かる二つの小さな橋──
涙橋と縁切り橋。
わずか六十間ほどの距離しかないその二つは、
まるで運命の折れ目のように、L字を描いて連なっていた。

母の乗る籠は、涙橋を北東へと進んでいた。
籠の中は薄暗く、外の光が布越しに揺れている。
母は左手でそっと布を引き、
振り返らずにはいられなかった。
胸の奥が、何かを引き裂かれるように痛む。

視界の先──
湿地の向こう、曲がり角の先に、
横向きに架かる縁切り橋が見えた。

そこに、二つの影が立っていた。

成田氏長。
鎧ではなく、直垂に袴をまとった、
戦場ではない日の“父”の姿。

その脇に寄り添う、小さな赤い影。
三つになったばかりの娘──甲斐。

氏長は娘の肩に手を置き、
しかし視線はまっすぐ籠の方へ向けられていた。
幼い甲斐姫もまた、
母の姿を探すように、じっとこちらを見つめている。

母の喉が震えた。
声を出せば、泣き崩れてしまう。
だから、ただ見つめるしかなかった。

六十間。
走れば届く距離。
けれど、決して渡ることのできない距離。

湿地の静けさが、
三人の視線だけを浮かび上がらせる。

母は布を握る手に力を込め、
涙橋の名の通り、
その目に涙を溜めた。

「……甲斐……」

声にならない声が、籠の中で消えた。

籠が曲がり角に差しかかる。
縁切り橋の二人の姿が、
ゆっくりと視界から消えていく。
その瞬間、
幼い甲斐姫の胸の奥に、
小さな炎が灯った。

後に“赤”と呼ばれる強さの源が、
この沼地の静けさの中で生まれた。