犬伏・薬師堂
〒327-0803 栃木県佐野市犬伏新町2060番地2他
慶長五年(一六〇〇)、天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えた七月二十一日、徳川家康について会津の上杉景勝討伐に向かった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子は下野国犬伏(現在の佐野市)に到着しました。そこで陣を張っていた父子のもとに石田三成から密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。
この書状を受けて父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断したとされています。
その話し合いの場がこの薬師堂であったといわれており、すぐそばを流れていた川に架かっていた橋は、真田父子の別れ橋としてこの地に語り継がれています。

真田の家名を繋いだ「犬伏の別れ」と父の深謀遠慮
慶長5年(1600年)、上杉征伐のため会津へ向かっていた徳川家康率いる東軍一行に、石田三成挙兵の報が届きます。下野国(現在の栃木県)の犬伏に到着した真田昌幸、嫡男・信之、次男・信繁(幸村)の三人は、薬師堂にて真田家の進退をめぐる密談を行いました。
この時、長男の信之は徳川四天王・本多忠勝の娘を妻とし、次男の信繁は西軍の将・大谷吉継の娘を妻としていました。激論の末に出した答えは、父・昌幸と信繁は「西軍」へ、信之は「東軍」へ参陣するという異例の決断でした。
これには、東西どちらが勝っても「真田の家名」を必ず残すという、昌幸の凄まじい執念と深謀遠慮があったと言われています。
関ヶ原の戦いの後、敗れた西軍に与した昌幸・信繁父子は本来なら死罪を免れない立場でした。しかし、信之の必死の助命嘆願と本多忠勝の後押しにより、奇跡的に命を取り留め、紀州九度山への蟄居(流罪)に留まりました。
その後、信之は徳川家康から家光まで三代の将軍に仕え、幕府からも絶大な信頼を寄せられる存在となります。昌幸の狙い通り、真田の家名は一度も途絶えることなく、激動の幕末まで受け継がれていくことになります。