笹尾山陣跡(石田三成陣跡)

〒503-1501    岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008

石田三成陣跡
Ishida Mitsunari’s Encampment
W西01

笹尾山は、石田三成隊にとって、周囲を見渡せる絶好の防御拠点でした。
石田三成隊約六千は、大垣を出発し、慶長五年十月二十一日午前七時頃、
ここに布陣しました。

合戦当日の午前八時頃、東軍が進軍を開始。
石田隊は、島左近の指揮のもと、強力な大筒で東軍の最初の攻撃を退けましたが、
徐々に押し返されていきました。

西軍は二対一の兵力差にもかかわらず奮戦しましたが、ついに押し戻され、
三成は伊吹山の西へと逃れました。

Mt. Sasao was the perfect defensive position, providing Ishida Mitsunari’s troops with a panoramic view.
Ishida Mitsunari’s approximately 6,000 troops departed Ogaki and set up camp here around 7:00 a.m. on October 21.

The day of the battle, around 8:00 a.m., the Eastern Army began advancing.
Mitsunari’s troops, commanded by Shima Sakon, repelled the first attack with their powerful ca

笹尾山石田三成陣跡

島左近陣跡

笹尾山の麓に島左近陣跡があります。向かって右側。
石田三成の軍師として名高い島左近ですが、筒井順慶と言えば「洞ヶ峠を決め込む」。
日和見順慶の家臣だった人物です。
島左近(しま さこん)(清興)は、「治部少(じぶしょう)(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの智将で、三成は自らの俸禄(ほうろく)の半分を与えたとの逸話が残る。
関ヶ原の戦い前日には、杭瀬川(くいせがわ)の戦いで東軍の中村一栄(なかむらかずひで)らの軍勢を破った。
当日はここ笹尾山に布陣し、攻め寄せる黒田長政や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せたが、長政の家臣、菅六之助(かんろくのすけ)(菅正利)の射撃で負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれる。
これを機に、善戦していた石田隊は徐々に押し込まれていった。